俺「もう我慢の限界だ!今日から俺は、快楽主義で生きてやる!」
哲学者エピクロス「キミキミ、真の快楽を知ってるかい?てか、快楽主義を勘違いしてない?」
先回紹介しました、名著シリーズの「史上最強の哲学入門」より、
古代ギリシアの哲学者:エピクロスのお話です。
題名の通り、快楽主義という言葉が現代でも生きていますね。
意味:自己の快楽を追求して苦痛を避けることが善であり、それが人生究極の目的あるいは道徳の原理であるとする考え。(参照:コトバンク 様より)
・・・なるほど。自分も全くその通りのニュアンスと解してました。
だがしかし、エピクロスが提唱した快楽主義の本当の意味は全く違うようです。
エピクロスが肯定する快楽とは、「飢え・渇き・寒さ・熱さ」といった苦痛が取り除かれた「普通の状態」を指すようです。
つまり、普通に自然に暮らすことが幸せな生き方だという事です。
・・・ん?
考えてたのと全然違いますね。なんというか、素朴というか現代的に普通すぎない?。
また、一過性の快楽は快楽の定義に入らないとの事。(例:満腹になるまでおいしい物を食べる等)
ますます快楽主義ってイメージと全然違いますね・・・
そんな彼の残したワードに、「快楽主義」と「隠れて生きよ」という名言があるようです。
これは文字通りの意味ではなく、世間的な面倒ごとにあまり関わらず、ゆったりと過ごしましょうというニュアンスなのだとか。
・・・普通ですね。
では、彼の言う「真の快楽」とは何だったのか?
彼は「真の快楽とは友愛である」との言葉を残しています。
他者に価値を見出し、友との思い出を育んでいこう・・・ということですね。
・・・
「ん~、自分にはちょっと無理かな?」
果たして、自分が死んだとき、何人の人がお葬式に来てくれるのだろうか・・・?
世間的な話になりますが、結婚式の際に友人や親族が少ないことを恥じて、業者手配によるエキストラを参加させるサービスもあるくらいの時代です。
名著「嫌われる勇気」でもありましたが、自分の道を進むと、その道に沿ってくる人もいれば、道程で自分と同じ道を歩いていた人が道から外れて別の道に向かっていってしまう人もいます。
そうこうして、出会いと別れを繰り返しながら、いつしか真の友が現れると言います。
そういう人と思い出を共有していけばいいのかな?
コメント