フランス思想家ルソーの教育論 自然人教育と社会人教育とは?
今回紹介するのは、フランス革命へ影響を与えたフランスの思想家ルソーが書いた教育論、「エミール」の漫画版です。
先に言っておきたいことがあります。
決して表紙のお姉さん(ソフィー)の足に吊られて購入したわけではありません!(たぶん)
購入のきっかけは、もちろんこの書籍から興味を持ち、漫画版があったので購入した次第です。
ちなみに、私は教育学部の出身者ではありませんが、現在でも教育者の必読書にあたるそうです。
実際ネットで見てみたら、とある教育学部内の過去問でも題材として扱われていました。
内容についてですが、漫画版の主人公:レオは実父で思想家のジャン・ジャック・ルソーに棄てられ孤児院で育ち、成人し教育者になりました。そして自分の息子エミールに、実父の著書「エミール」を基に教育を施す物語となっています。
「エミール」の中で特に重要となると感じるフレーズがあり、
大人は自分の都合のいい事物だけに集中し、子供が本当に求めている愛には無関心である。また、子供を小さな大人扱いして、その時の成長過程にあった教育を考えない。
例えるなら、
- 「あなたの為に言ってるのよ!」(と、言いつつ自分のエゴを押し付ける)
- 「あなたの将来の為よ!」(と、言いつつ自分の出来なかった事を子供にさせる)
俗に言う、呪いのワードがそうだと感じました。(ちょうどドラマ:青のスクールポリスを見てた)
仮にそうではなかったとしても、現代教育の子供の先見の明を意識した学問と一般教養は、幼児期・少年期に本来必要な成長過程を台無しにしているとしています。
では、成長過程にあった教育とはなにか?
ここでは、0~15歳までは自然人教育を行い、15歳以降は社会人教育を行うとしています。
ちなみに、自然人や社会人とは?となりますが、それぞれは以下になります。
- 自然人=自分の為に生きる人間
- 社会人=思いやり・共感力のある人間
これだけ聞くと私が感じたのは、
「いや、社会人教育をすることの方が大事だろ?」
と思ってしまいますが、自然人教育をする理由としては以下となり、次の成長過程の社会人教育を行っていくうえで、
自分の弱さを自覚し、挫折を乗り越えるためには可能性(才能)を信じることが必要。自然人教育で自己を愛する自己コントロール能力を身につける必要がある。
としています。そして、この可能性(才能)を発見することが、小さいころから集団行動にもまれると自分の才能の自覚が難しいからとされています。
どういうことかイマイチわかりませんでしたが、ルソーは15歳までは自然の中(社会の外)で学ぶことを重視しています。自然を善として見ているかららしいですが、私が考えるに人の集団(社会)の中では他者との比較が常に存在し、「他者に比べて自分はコレが秀でている」という、比較による才能の認知が誤りになりやすいのではないかという事なのかと考えました。
アリストテレスが万学の祖とされているのは、自然を観察することから自然科学を発生させたからです。人⇔人の比較によるものではなく、自然に触れさせて、自然⇔自分との感覚から自分の可能性(才能)を見つけなさいという事なのでしょう。
たまにTV映像で、僻地の自然に近い場所に住み、同年代のいないエリアで子育てをしている家族を見かけます。これが最たる例でしょうか?
その映像で、素足で駆け回る子供たちを見ていましたが、
「親は何もしないのか?、あれじゃケガするし危ないぞ!」
と、率直に感じました。たぶん、コレが駄目なんでしょうね。自然と触れ合うことで、何が危険でどこからが大丈夫か、子供が自らリスクを学び取るようです。ちょっとのケガなら学びとなるわけです。ルソーの自然人教育は基本消極的教育で、大人は子供が大事に至らないように見守りながら導くことになります。
実際にそんな環境に移住して子育てをするまではいらないでしょうが、そんな環境下で育てられるなら、子供社会の中で生きていくうえで必ず出てくるであろうガキ大将問題に関わらなくていいですね。
この問題で発生する暴力(悪)について、振るう側も振るわれる側も心に悪い影響を与えます。この問題が発生する前に善の観念を子供に持たせなければなりません。この時に大人は積極的に道徳教育にかかわる必要があります。
それ以外については自然による消極的教育により、五感の発達、自由な環境からの好奇心の目覚め、子供が有用性に気づいた事から学ばせることが大事とされています。これらは、その子が生きる上での前提を養う事なんでしょうね。
ここまでの話で、これらが何故「自分の為に生きる人間」に繋がるのかよくわからなかったのですが、何よりも自由に育つという事、社会にできるだけ触れないことで自分本位=自分の為となっていくのですかね?それとも、生まれた時点で利己的(性悪説)ということなのでしょうか。
そうこうして15歳になり、15歳以降は自尊心との闘いとなっていきます。
ここで自然人教育による可能性と才能、自分をコントロールすることが必要になります。
思春期=他者を意識し自尊心が強くなる時期、この頃に必要なのは3つの確率であるとする。
- 人間は自分よりも格下と思っている人間の上に自分の自尊心を置きがち。しかし、格上・格下と表面だけで判断してはいけない。各階層ごとにもそれぞれの悩みがある。
- 人は無関係と感じる災難には同情しない。しかし、いつかその災難が自分にも降りかかるかもしれないと想定すれば共感できる。ex.対岸の火事
- 人は自分に敬意を払っていない人の苦悩には無関心。しかし、格差(不平等)の観念がなければその人の苦しみも共感することができる。(例:「ワシは貴族だ!平民の事など知るか!」)
ここからが、「社会人教育=思いやり・共感力のある人間を育む教育」となっていきます。
社会に入れば、人⇔人との比較に苛まれます。
他者との比較で自分の弱さを自覚し、挫折を経験することになりますが、それを乗り越えるためには先の自然人教育により育んだ自分の可能性(才能)を信じることが必要です。
自然人教育を行う事により、可能性(才能)の発見と自己を愛する自己コントロール能力を身につける必要があったからです。
そして、自分の秀でた才能を他者のために活かす喜びを知り、自分にない才能を持つ人を尊敬していくことで、他社を尊重するという共同体社会の中で生きていく力を養います。
また、思春期の到来と共に恋愛(欲望)の問題も発生します。
ルソー教育論最大の難題は欲望の克服であり、自分自身の支配者になれるかどうかです。(自分をコントロールできる人になれるかどうか)
ちなみに恋愛については、官能ではなくお互いを高めあうことのできる人と出会う事が重要とされています。
これらのまとめとして、
自然人教育により自分の為に生きる意思を育てる+社会人教育により他者を思いやり、他者を尊重する意思を育てる⇒自分を愛し、他人を愛すという相対した意思を克服する=自分の為に生き、人のために生きるよう、大人は導いていく必要を説いています。
ここからは自分に置き換えての話ですが、私の生まれた環境で言えば、我が家の親の基本方針は自由ではなく、禁止の教育方針だったと思います。
「アレは食べてはダメ!」「コレはやってはダメ!」「ソコへ行ってはダメ!」と禁止ずくめで、他の子は普通にやってるのに、何故自分はダメなのかわからないままに受け入れていた覚えがあります。
大きく考え方を変え始めたのは大学で家から離れた頃からだと思います。
単身での実際の生活の中でふと感じたことから、親が言っていた事の違和感を感じ、「何故そうなんだろう?」「せっかくの一人暮らしだし、色々やってみよう!」といったところから、遅く小さいながらも今の感覚に近づいて行ったように思えます。
予想以上に親の教育方針・価値観というのは子供に呪縛として残ります。そういう意味で、教育というのは大切な事項ですね。
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